昭和44年12月18日 朝の御理解



 御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」

 こうして御理解を頂きますと、本当にその読ませて貰う聞かせて貰うその中から、そのままを受け取らせて頂くという事ですね。この通りの事を受け取らせて頂く。是が先ず第一だと思います。今読ませて頂いたその事を皆さんがお聞きになったそれだけ。ね、だからそれだけではいけんから、それを段々もっと深いものにまたは広いものに、よりまた有り難い物に練り練り上げていくとでも申しましょうかね(?)で御座います。
 頂くだけで成程信心とはそういうもんだなあという事が、しかも金光様の御信心とはそういうもんだなあと言う事が、この68節を頂いておりますと感じられますですね。実に、まあ平易で平凡でやはり、み易う信心を説いて下さってあるです。今朝控えに出て参ります時に、そしたらここに座らせて頂いたら、もう私は冬は手洗いの所の水が止めてあるんですけれども、水の音がするんです、しかも筧を伝うて何ともいえん、一つのまあリズムがね流れてくるわけです。
 そしてこれは私の耳が、そのおかしいのかなと思うて、わざわざ暗い中ガラス戸を開けまして外へ出ましたら、ここは小さい小さい電気一つしか点いておりませんから分からんのです。けど外からこう透かしてみたら、筧が新しく作られて少し今より高くなっている。ですからちょうど、その水の落ちる具合がちょうどいい、加減になってその水の音がなんとも言えん、そのリズムを奏でておるわけですね。
 だからこれ、昨日土居の久富さんがいつもきまって御用しておられるんだなと私は思うたんですけれども、それから座らせて頂いてから、もうそれこそ物音一つせず、暗い中で、あの、水の音を聞いておりますと、もうどこまでもどこまでも心が深くこう、ものを思わせていただくことができるような感じですね。それでまあ、まあ私の心の向かうまま、そのままの状態、写生ですね。
 静けさや筧を伝う水の音と、静けさや筧を伝う水の音。けれどもこれは俳句としてはね、ただそれを素直に、ただもう本当にその通りなんですから。その通りをだから俳句の調子で表現しただけである。ですからそれでは、私は本当に良い句にはならないのだ。それが例えば、ひねられると言うですかね、それが練られてそして立派な俳句が出来るのだろうと。けれどもやはり句作をする初めの間はそれが良く思うんですよね。
 見たまま聞いたまま。それが感情にでてくる。それをそのまま書き綴っただけなんです。今の句なんかもう全然ひねったところがない。本当に静かな静かな中に、本当に僅かずつではあるけれども筧を伝うて流れてきておるその水の音が、いよいよ静かさを、より深い静かさに、しておるという情景を、そのまあ、いわば、句にしたわけです。なん句にもなってないでしょう。
 けれども私、この68節を頂かせてもらって、その事を関連して思うのです。こう今私が一通り68節を読ませて頂いて、はぁ金光様の御信心とはそう言う様なもんだなという事がですね、信心をさせて頂くいわゆる心掛け、そこをこの様な表現で教えて下さっておるわけですね。所が例えばですね、段々ならこれをまあ深い意味において頂いてまいりますと神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと。えらいとも思わぬ、辛いとも思わぬ。
 けれどもここんところ段々実際の上に、行に現せていきおるとですね、辛いとか寒いとか苦しいじゃなくてですね、それだけじゃないんです。その辛抱していきおるとです、その事が有り難くなってくるんです。この雨の中にいうなら濡れしぼたれになって、お参りをさせて頂いておる自分がですね、悲しゅうなったり苦しゅうなったりじゃなくてです、もうそれこそ、嬉しいやら悲しいやら、というようにですね。
 その勿論ここで言う悲しいやらというのは嬉しさの、嬉しい表現ですよね。涙が出るほどにどっから湧いてくるか分からん風に、涙が流れるほどに、お参りをさせて頂いておるその自分の姿が尊いものに、有り難いものになってくる。所がですね深められてくるわけです。それが辛抱する心がね雨が降るとか風が吹くとかという時に、はぁその時にえらいとか苦しいとか思うちゃならんばいなというだけじゃなくてね。
 それよりも少しこう参ってまいりますと、今申します様にそれが苦しい所か有り難いものになってくる。成程是がこれなら身に徳を受けていく筈だなあと実感致します。お参りが例えば寒いとか、又は暑いとかという中にです、暑い寒さも感じんほどに有り難うならせてという事が出来る。そこに行の上に現わして行く所からね、それが練られて行く所からそういう風にして、次のここに表現してない所が分からせて貰える。
 ただ、こういう雨の日にお参りせにゃならんじゃろうかといったようなものではなくて、そこを一心に神様に心を向けてくるとその事がむしろ有り難うなってくるという事をここに書いてないけれども、そこに、身に徳を受ける修行じゃという、なるほど身に徳を受ける修行じゃろうなあという事になってくる。同時にまた、ならここのベランダにおらせていただきおると、お互いがそれぞれの人生にあるですね。
 いわゆる人生の上にも雨風がある。今が雨の、雨の時であろうか、なら自分の一家の上に大嵐が吹いとるのとじゃなかろうかという時があるんです。そうするとこれはもう実生活の上に結びついてくるわけですね。その事がだんだん御神意が分からせて頂くところからです、やれ痛や、今みかげをよという心になれよといったような心がね、そこから練りだされていく。人生の雨風においても同じ事。
 心が無いとならばはぁほんにもうこげん、家ん中ががたがたするごたるなら、もうし死んだ方がましというごたる中からです、ね、この様な中から昨日もある方が息子さんのいろんな難儀な問題、一心にお縋りなさっておられます。そして先生今度息子がおかげを頂きましたなら、私はお道の教師にでもお取り立て頂くために、ご本部へでも修行にやらせて頂こうかと思いますと言われる。素晴らしいでしょ心の飛躍というか。
 あげなん奴はおらん。あげな親不孝もんはおらんというて悩み、悩んでおられるのではなくてですね、この事を境に機会にですね、息子が道の教師にでもお取立て頂きたいと言う様なものも生まれてくる。いうならその雨風をいわば有り難いものにしていこうとしておる精進をしておられるわけですね。有難そうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃと。
 ところが実際にです、私は毎朝思うんですけれども、皆さんが一生懸命、若先生の先唱について、天津祝詞大祓が奏上されます。そこに一つのこうリズムが出て参ります。自分のあげておる声がそれに調和してまいります。一つの調和感とでも申しましょうか、もう何ともかんとも言えん心の状態が生まれてくる。私皆さんの大祓をじーっと聞かせて頂きながらそれを思う。
 それこそ筧の水の音じゃないですけれども、何十人の人が同じ節で、声高らかに大祓を奏上しておるという事がです、もう何とも言えん、御広前にいっぱいにです、有り難いものが広がっていく思いが致します。特に恵介君なんかの大祓いは、一際子供の甲高い声でね、それでも一生懸命にあげておるのを聞かせて頂いておると、もうたまらんように有り難さが生まれてくる。
 ですからもうここにいかにも節をつけたり大きな声をあげたりせんでも良いとこう言う様に言うておられるけれども、そうじゃない事が分かるでしょうが。心の中でもくもくもくもく言うとるよりもです、矢張り一つの節なら節ですね、一つのリズムというものが出て来る様に、調和感が出て来る様に、しかも腹の底から一生懸命に奏上させて頂いておる内に、どんなにいわば心のアクとでも申しましょうか、心が濁っておるとでも申しましょうか、そう言う様なものがここにあげておる内にですね。
 拝んでおる内にですもう清まってくる気が致しましょうが。聞いておってもそうなんですから、あげておりゃなおさらの事。そうすると矢張りあげんでもいいけれども、そういう大きな声で一生懸命にあげる事の上にです、尚更の事がここに伴うてくればもっとより有り難い事ということが分かりますですね。だからやっぱり覚えもしなければならん、なるほどここに合楽の流儀がありますからね、例えば大祓いなら大祓いの節でも、大祓い合楽節が矢張りあります。
 ですからそれに調和して、私はその奏上させて頂く時にです、本当に自分の心が本当に祓い清められるという気が致しましょうが。それが真なんです。その時が真なんです。そういういわば清まった心静まった心を持って、神様に次の御祈念という事になる。願う事も良かろう、お詫びをする事も良かろう。御礼を申し上げる事もまた有り難い。あぁ本当に御祈念に参加させて頂くということが有り難いなあ。
 十分二十分早起きしてどうでも矢張り、御祈念に参加させてもらわなければ、おられなくなってくる。してみるとここは矢張り、声をあげた方が良い事が分かり、節をつけた方が良い事になってくる。このいわゆる言外の言というかね、言葉の言葉に表現しておられる、そのまいっちょ奥のものをそこから分からせて頂くわけなんです。皆もそれを実感されるでしょう。どうでしょう。
 だから金光様の信心ちゃあもうそげん、もういろんな事を言われる。ただもう最後に人にものを言うようにと仰るから、もうものを言うようにでよかろうと言うて、なるほど初めは誰だってそれなんです。初めて参ってくる人はみんな申します。どげん言うて拝まにゃならんでしょうかっち。何かお経のごたっとがあるでしょうかというのがあります。ありますけれどもね。
 いうならあんたが覚えることはいらん、あんたが人にものを言う様にお願いしていきなさりゃあよかっち私が申します。しかもそれは真実、いわゆる赤裸々でなからなきゃいけない。夕べ夜の御祈念に、高柴さんを先頭に、あちらの日田の綾部さん達一家、それから、お付き合いをなさっておられます、何じゃったかね、山根さんっちいうね、山根さんという日田の、駅のお弁当を作っておられる方です。
 夫婦でお参りをしてみえられるんですが私はまだご主人に、お会いした事がない。奥さんはいつもある。もう本当に何て言うでしょうかね。まあ良い意味合いにおいての傍若無人ですね。もうえらい人もなからなきゃならない、もう我が言いたい事をもう、それこそもうこきたい放題の事をこくというタイプですよね。それが昨日、あちらの綾部さんのところに、やっぱ大きな御商売もされますから、なかなか手形なんかでも千五百万くらいあった、昨日。2,3日前おねがいがあってました。
 もうそれがもう見事にこうおかげを頂いていった具合がですね、もう何とも言えんもんですから、会計をしておる人と販売主任をしておる人とがお願いに来とりました。それからあちらの主人と。若主人と。で、それが、おかげを頂いたから、ここに今日敷いとります、この、座布団を持って御礼に出てみえました。もうしゃっちこれをもう白かとかけずにこのまま敷いてくれというわけなんです。
 してまたはその古くなったらすぐお届けをさせてもらうから。大体私はここに白かとかけとかにゃいけんと思うけれど、あちらにそう言うて、それからこの紫のこの座布団を夕べから使わせていただいた。だから夕べの御理解にこの紫のこの座布団、紫という事についての御理解でしたよね。そういう時に御礼参拝をしようというところに、お姉さんがすぐ近所におられます。
 大変なまあ親戚中に付き合いをなさっておられますから、もう休むたびに、何て言うですかね、その、ネグリジェというですかね、着たままサンダル履きでちょっと晩にいったところが、いまから合楽にお参りしおる。そんならワシも連れて行ってくれと言う訳でその、一緒に乗ってくるぐらいの事であった。そしてここでまあ言われます事です。こんな格好でお参りしに来ましたって言うて、いえ、この神様はね。
 もう真っ裸が一番お好きなんですよと、もう赤裸々。そしたらあとから下がってから、もう、お茶でもあげさせて頂いて、ちょうど昨日高橋さんのお母さんが参っておりました。ちょうど娘さん達夫婦が夕べ参ってまいりまして、ああもう、急いで帰らんでもいいと言うて、裏ででお茶でも(?)ちょうど(?)でした。そこで言われるんですよね。先生、私は今日は、今日ばっかりはあそこに先生がこの神様は裸がいいっち言いなさったが、もう私はもうこの神様は見通しっち思うたっち言わっしゃる。
 なしてですか。下には先生なーあにん着とらんとですよっち言うて、裸で来とるとです。(?)もう巡りで、私は目ん玉飛び出させてから若いときから見おるんだと。今日は先生私は裸ですよっち言うてから言われます。神様が見通しっち言うてからですね。そして言われます。三、四日前、二、三日前でした。ご主人が参ってきております。今度はああた、家の主人がおかげを落としましたっち言う。
 それが競輪にいってお願いさせていただいたら25万円儲かった。だから儲かったら十万円お供えするちゅってからここに決めてから買うたげなです。したら25万円、ね。そして帰って来てから言うたとげな。つうっとそのまま車飛ばしてからお礼に出てきちゃります。私ここにおりましたのに、電話かけとる内に、ここに御初穂だけおいて帰っておられますけん、あの顔も見らなければ知らん。全然。
 したらこっちの仲良う(?)の人から、今みえましたよ。日田の綾部さんのご主人から。私はまだ顔見たことがない。そうしたらあんた帰ってきてから、俺は十万円お供えするはずじゃったばってん、俺は五千円ばお供えしてきた。そりゃあんたそげなこつしよるならあんたバチかぶるよっち言いおったら、明くる日行ってから、二十万円とられた、今度は反対に。だから結局五千円がたしか儲からじゃったちゅってから。
 ま帰ってきなさったという話をしなさいます。もう実に赤裸々。しかしこれは本当他人事じゃないですよ。おかげ頂いた。おかげ頂いたなら、それこそ一人で千の灯篭もお供えするごと思うたり言うたりしおるとですよ。実際自分が握ってみるとなかなか人間ちいうものは、そこに人間の汚さがあります。そりゃあもう本当に美しい人たちです、この人たちは。夫婦とも。
 けれどもですね、やっぱり実際二十五万円も握ってたところが、実際お供えするとは五千円じゃった。ほんで、帰ってそれまた奥さんに話されたらしいです。あんたそんならバチかぶるよっち言ったら、明くる日きれいに二十万取られた。残ったのは五万円じゃった。やっぱちょうど五千円がた。本当にその、何と言うですか、その真実という、真実性が、もう無邪気に溢れておるわけです。
 かというてそんならそれがですよ、もういうならば人の思う通りに、願うたり言うたり、自分の思いのままをです、こんなこつ言うたら先生から笑われたりせんじゃろうかと言った様な事のない赤裸々な、いわばあり方でです、おかげを受けられることが分かります。かというとならそれで良いという事じゃあない、段々お道の信心させて頂いとんなら、お道の御信心ぶりというのが段々身に付いてこにゃいけん。
 いわゆるお道の信者としてのやはりエチケットというのがあるんです。そういうものができて、しかもそれがです、それが真が伴うていかなければならないところに、信心の、矢張り難しさ又は有り難さがあるわけなのです。長者の万灯よりも貧者の一灯というような事を申します。成程その貧者の一灯と、それはもう一生懸命のものがある。だからそれが真として受けられるという意味でございましょうね。
 けれども私は思う。金光様の御信心はです、いつまでも貧者の一灯じゃあつまらんです。どうでも一つおかげを頂かせていただいてです。長者の万灯でなからにゃいかんと。もちろんその万灯がです、その万の明かりが勿論それに真が伴うておらなければなりません。ところが、今申します段々傘が大きくなってまいりますとです、それに不純なものがついてくるところに、本気で信心の稽古をしなければならない。
 二十五万円儲かったら、十万円お供えしますと。それがそのままに十万円お供えされておったら、素晴らしかったろうと。そりゃまた、明くる日二十五万円儲かったかも知れません。ところがそこが人間の汚さ。五千円でいつもの五倍ぐらいお供えしとるとじゃけんでという気持ちがある。そしたら明くる日、綺麗にまた二十万円負けた。そういう例えば事でもです、今日私が申します68節、頂いて、そりゃ、頂いただけで感じること、頂いただけで分からせて頂くこと、それだけでも素晴らしいです。
 夕べ、私今朝から感じさせて、感じたという、別に私が、その、俳句の稽古したわけじゃないけれども、そういう例えば、あの深閑とした静かな中で筧の音を聞いとったら、今のような、句らしい句ができた。「静けさや 筧を伝う水の音」というて自分でそれができておいて、まあちょっとすぐ控えた。控えたのを見てからです、もう何とこれは、ただその、自分の思うた通りが、字が並べてあるというだけで、その詩には、深さもなからなければ味わいもない。
 だからだんだん俳句の上手な人が同じ情景を見ましても、稽古した人がそれを句にするとです、そんなものを、例えば情景であっても、それについて表現方法がもっと深いというか、もっと見事な表現ができるだろうと。御理解を頂いても同じことが言えます。表面に現れておる言葉といったようなものから、私共まず、頂かせていただいて、そしてだんだん練らせて頂くところから、ただ今申してまいりましたような事が、段々深く分からせて頂くようになる。
 小さい音でも良いと無理に拍手、大きな音をさせんでもいい。節をつけたり大祓いをあげるのに大きな声を出さんでもいいと。はあ成程金光様の御信心というのはそういうものなんだ。なるほど、腹ん中でこそこそ言うた、言うても神様に聞こえるんだと。また事実そうなんですね。けれども人にものを言う様にと言われるけれどもです、矢張り何というですかね、神様の言葉とでも申しましょう。
 真に今日もおかげを頂きまして有り難う、人に言う場合そげなん事言やせん。けれどもやはり、そういう風に、例えば、言うた方が御祈念しながら有り難い。今日はどうも有り難うございましたっていうたような風にはいかないからね。今日は真におかげを蒙りまして有り難うございましたと。厚く御礼を申し上げますと、有り難うございましたと言うだけじゃなくて、いわゆるそう申し上げましたというふうにですね。
 申し上げますという風に、ま、言った方が、拝みよってから有り難い。小さい声よりも大きい声で、一生懸命大祓いでも奏上させてもらっておるところからです、本当に自分の汚い心が清まっていくような思いがするです。そういう心が清まった心で、願う事を願う、頼む事を頼ましてもらう、という問題はそういう心をです、やはり家に持って帰るという事に工夫しなければならん。
 それで工夫して参りますと例えば、少しばかりこの御理解をまひねって、申しました考えます、たところを二、三点、聞いて頂いたわけでございますが、矢張りやっぱり一日も早う本当のお道の信心ぶりというものを身に付けて、いわゆる貧者の一灯よりもです、矢張り長者のおかげを頂いて、長者の万灯のお供えができる時御用ができる時に、その万灯に対しましてです、真が伴うておると真だと神様が認めて下さるほどしのです、おかげを頂いた方がおかげであり、いや頂いた方が頂かなきゃならんのです。
 そこの稽古を、いや、そこのおかげを頂かせていただく為にも、今日頂きますように、やはり、和賀心からも練りだせと仰る、やはり、自分でも工夫させてもろうて、いよいよ本当の事になっていかなければならん。貧者の、ま、長者の万灯より貧者の一灯というけれども、金光様のご信心は、長者のおかげを頂かせて頂いて、万灯が有り難くおかげの頂けれる私共になっていく稽古をさせてもらう。そこにまた稽古の楽しみもまたあるわけです。こうとうに成程神様が仰っておられる通りに。
 人に物言う通りでもいい。大きな声をたてんでもええ。例えば拝むという事でもです、わざわざ節をつけたりせんでもいい。それでも矢張りおかげは受けておられるという事を日田の山根さんの例をとってお話申しました。けれどもならいつまでもそれでいいという事はないのでございます。矢張りそこにお互いお道の信心信心者としての、いわば信心の教養とでも申しましょうかね、を身につけさせてもらい。
 成程信者らしゅうならせて頂くと言う所に、おかげを頂かせてもらう。信心が功者になる、どっから見てもこりゃあ金光様の信者であろうと思われる。ところがおかげがいただけていないとするならばです、とするならば、私はこれは貧者の一灯の時代のものがまだましじゃった。段々おかげを頂いて、そこに真が段々欠けてきておるのではないかと悟らせて頂かなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。